蔵だより

諏訪の宗門改帳

速水融著「歴史人口学で見た日本」という本の中に、諏訪にまつわる話が出ていたので、ご紹介します。

明治の初期、廃藩置県により、宗門改めも廃止され、それまで高島藩に保管されていた宗門改帳が廃棄されることになりました。

諏訪高島藩には、宗門改めが実施された寛文5年(1665年)から、明治4年(1871年)までの、約200年にわたり書類が保管されていたようです。150村x200年分で、3万冊程の量と推定されます。

廃棄方法で意見が分かれましたが、結局、書類を裁断しての売却となり、それを聞いた永明村(茅野市)横内の小川津右衛門が、大枚をはたいて購入したそうです。津右衛門とその子三四郎は、数十年の歳月を費やして、裁断されていた書類の整理復元を行ったとのこと。三四郎の死後、五味栄へと所有が移り、最後に、文部省の史料館に納められました。このような個人の思いと努力の結果、珍しい歴史資料が残ることになったようです。

津右衛門はなぜ、裁断された宗門改帳を入手したのか、またそれを長期間にわたり整理復元したのか気になります。

現在残っているのは、宗門改帳のおよそ40%弱に当たり、この書類のおかげで、江戸時代の諏訪の人口の推移を推定することが出来たようです。

それによると、17世紀中は人口が増大し、1720年頃から停滞し、横ばい状態になり、明治維新頃になり再度増大し始めたようです。

17世紀の人口増大について、説明がなされていました。世帯の規模と構造が変化し、大規模世帯(15人とか20人にもなる)から、直系家族や核家族世帯(4人から6人くらい)になった。大規模家族では、結婚しない者も多くいたが、、核家族化により結婚する者が増え、出生率が上がった。その結果として人口が増大した。

なぜ、大規模家族から核家族へ移行したのか。江戸時代が始まり、それ以前の兵農分離がない状態から、兵農分離がなされ、城下町ができた。城下町からの需要が起こり、農村からの供給が行われるようになった。それ以前の、自給自足と年貢のためだけの生産ではない、市場向けの生産が行われるようになった。働けば働いただけ戻ってくるお金が増える社会となった。そのため、より効率の良い生産方法が模索されるようになった。大規模家族による生産では、下人や次男、三男は、生涯独身で、単に働くばかり。さぼっていようといまいと自分の実入りは変わらない。しかし、核家族単位なら、働いたら働いた分が家族の収入となる。また土地が狭いため、少人数単位での作業の方が効率がよい。そのため、核家族化が進み、17世紀の人口増大は起きたとのこと。

そんな、諏訪にまつわる話が書かれている。

人口推移の話より、当時、大枚をはたいて、宗門改帳を入手し、整理復元したそんな人がいたことに感心し、興味深く感じた。


【参考資料】
・速水融「歴史人口学で見た日本」 文春新書 文藝春秋 2001
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・「高島藩の宗門改め」諏訪市博物館46回企画展
・諏訪教育会編「諏訪の近世史」昭和41年 p235-36
・細川隼人「諏訪藩における宗門改」 信濃史学会「信濃」Vol9, no.7 July, 1957 p44


馬耳