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味噌神社と覚心
2009/06/15
長野市にある長野県味噌工業協同組合連合会という長い名前の組合の敷地内には、入ってすぐ右側に、味噌神社があります。さらに、岡谷市にある同組合の南信支所(研究所)の敷地内にも味噌神社が置かれています。
味噌組合なので、味噌神社を奉るのは当然とも言えますが、奉られているのは、「覚心」という名のお坊さんです。
なぜ、「覚心」と言うお坊さんが味噌神社に奉られているのか不思議に思うところです。当然、味噌に関連のあるお坊さんだろうとは予想されますが、どんな方か少しだけ調べてみましたので、ご紹介します。
覚心は、無本覚心あるいは心地覚心ともよばれる鎌倉時代の禅宗の僧侶です。今ではあまり知られていませんが、当時は、天皇から国師という最高位の名称を頂くほど功徳も高く、高名の方だったようです。しかも、出身は長野県松本の神林とあります。信州人としては、急に親しみを覚えます。
覚心は、承元元年(1207年)に生まれ、永仁6年(1298年)になくなっています。91才と長生きされたようです。味噌のお陰かと勝手に想像してしまいました。
嘉禎元年(1235年)、奈良東大寺にて得度・受戒し僧となり、高野山にて真言密教を学び、臨済宗栄西の法嗣である退耕行勇に師事し、その後、曹洞宗の道元にも学んだ後、宝治3年(1249年)に宋へ渡りました。無門慧開に学び、法を得て帰国したようです。このとき、禅宗では有名な書籍「無門関」を招来しています。この人が、この有名な本を日本に伝えたのかと、はじめて知りました。
主に、和歌山県の中央、紀伊水道に面する由良町の西方寺(後の興国寺)の開山住職として活躍したようです。時に、信州の母親に会うために、信州へ帰郷し、母親を由良の地へ連れて帰っています。
その後、亀山天皇からは法灯禅師、後醍醐天皇からは法灯円明国師と、2人の天皇から号をいただくほどの方であったようです。
さらに、座禅の代わりに尺八を吹く普化宗(ふけしゅう)の日本における開祖との説もあるようです。この宗派は、歴史ドラマによく登場する、編み笠をかぶり、「明暗」と書かれた頭陀袋を首から提げて、尺八を吹きながら歩いている虚無僧達です。こんなところにも顔を出しており、これにもまた驚かされます。あるいは、高名な方であったので、後生において結びつけられたのかも知れませんが。
覚心の属する臨済宗の開祖栄西は、禅とともにお茶を中国から伝えました。覚心は、中国にて禅を無門から学び「無門関」を伝えただけでなく、浙江省杭州の径山寺や鎮江府の金山寺にて金山寺味噌の製法を学び、日本に伝えたとの話です。
覚心は、禅を伝えた他にも、味噌や尺八を伝えるなどしたと言われていますから、当時としては、さまざまな文化を伝えた文化人だったわけです。
味噌について言えば、伝えたのは金山寺味噌であろうと考えられます。ただし、覚心が最初の人であったかどうかは、定かではないようで、金山寺味噌を伝えた代表的な著名人というところかも知れません。中国から伝わった金山寺味噌が元になり、日本の醤油が誕生したわけですから、日本的思想文化のみならず、日本の食文化に対しても、大変な功労者であったと思われます。
宋より帰国した後、母親の無事を伝え聞き、故郷の信州に残っていた母親に会うために信州へ旅し、自分の活動拠点である由良へ連れ帰っています。信州での滞在中、佐久の安養寺にて仏教の教えを広めると同時に、味噌造りを伝えたとの説があり、信州出身者であることも相まって、信州味噌のルーツと考えられたため、味噌神社の本尊として奉られたようです。
現在の信州味噌や一般的な味噌のルーツとしては、覚心が伝えたような金山寺味噌の系統がルーツなのか、別のルートなのか、曖昧なようですが、中国から日本へ醸造を伝え、広めた高名な1人であると思われます。
政治的闘争としての歴史ではなく、小さな食のあり方にも、歴史の中に足跡をたどることが出来、興味深いものです。現代の食文化にも、悠久の時をたどる歴史があり、そんなことに思いをはせながら、食卓の味噌を味わっていただければと思いました。
素人の浅学菲才のため誤解などあると思います。ご指摘いただければ幸いです。
参考:覚心さんについては、次のホームページに詳しく載っていましたので、紹介しておきます。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page024.html
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page024.html
その他、「信州味噌の歴史」、「みそ文化史」などを参考にしました。









